世の終わりの時、審判がなされるのですが、それは信仰があるということが問題ではなく、他者への心温まる行いをなしたかどうかが、そのことの基準となると、イエス様は語られます。
・空腹のとき→食べさせ ・渇きのとき→飲ませ
・旅人のとき→宿を貸し ・裸のとき→着せ
・病気のとき→見舞い ・獄中のとき→尋ねる
これらのことを行なってくれた人は、御国へと導かれる。そう言われておりますが、これは当時のマタイの教会が抱えていた事柄が背後にあるのでしょう。貧困と困難のなか呻吟していたと思われます。
ところが、この約束の御国へと招かれた人々は「いつやりましたか?」と訝しく思うのです。そういう行いをなしたという覚えがないというのです。このことをしてもらった❝最も小さい者(兄弟である)❞とはどのような人たちでしょうか。この人はイエス様の導き、支えを受け守られている、この方の恵みの深さを良く知っている❝わたし❞です。その恵みの喜びから、押し出されて、喜びを共有することへと導かれるのでしょう。
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