今、神学校の授業で「男女差別」をテーマにした箇所を学んでいる。聖書が書かれた時代は、確かに女性の地位は低く見られ、主導権は男性にあった事は間違いない。
そんな中で、教会でよく問題にされるのは「女性の牧師を認めるかどうか」である。教派によっては男性のみを主張されるところもある。
難しい話ではあると思うが、私の考えとしては「認めます」という立場を取る。
反対をする方々は第1テモテの箇所を引用されると思うのだが(専門的な話ですいません・・)大切な事は、福音を語る人物が興される事であって、男だとか、女だとかいう事を問題にする事ではない。
女性が語った福音を受け入れ、救われる人物が現れたら、それは神にとって喜ばしい事ではないだろうか。「女性が語ったのだから、無効である」などと神が言うだろうか。
私は聖書を「簡単に、単純に読む」事を意識している。難しくしているのは人間であり、本来、福音は簡単で単純なはずである。神の国は「子どもたちのようなもの」とイエスがおっしゃったように、素直に受け入れ、子どもの心で喜びを感じていれば良いはずである。
牧師が男か女であるかの問題は第1義的な事柄ではない。福音を語る事に召し出されたならば、その賜物を生かし、神の務めを果たせばよいだけの事である。男でも女でも、それぞれに与えられた賜物を活かして歩む時に、その人らしさや、人生を最高に生きる道が開かれて行くと思うがどうだろうか。
そんな事を考えながら授業を「ボーッ」と聞いていた自分でした。ではまた(^^)/
コメント