ある解説に、「われわれの当面しているテキスト(聖書箇所)はキリスト者のと
なるべきキリスト論を踏まえて、目的である倫理訓に入り、実際的な徳目が列挙
されている。道徳訓に深入りし、雄弁になりすぎないように自戒したい。
もちろん、教会には倫理的な説教があってもよいし。間違いだということには
ならない。時にはそれが求められる場合さえあろう。説教者があまりにも雄弁に
なりすぎると、道学者然とならないこともない。そのことを深く警戒しなければ
ならない箇所であるといえる。 (メディタティオン№、43)
このような倫理訓がでてくるということは、この時代の教会で、人々の”思い”
”思惑”が教会内に、混乱や分裂を引き起こしていたのでしょう。
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