ルカはこの18章で、「不義の裁判官の譬」に続いて「パリサイと取税人の譬」
を記しています。この2つの譬はルカにしか出てこない、ルカの特殊資料になりま
す。これらの譬は”祈り”がテーマです。
さて、今日の譬ではなぜ”やもめ(寡婦)”が登場するのでしょう。ユダヤ社会で
は彼女たちは大事にされました。(例えば詩編68:5,箴言15:25,申命記10:18)
規定や勧告が聖書に出てくるというのは現実そういう事があったのでしょう。
「聖書教育」で吉高叶師は次のように記しておられます。「神を恐れず人を人
とも思わない放埓で傍若無人な人物が裁判官の地位についている。これこそが、
ルカとその読者たちが生きた時代のリアルな現実でした。剣と槍が言葉を封殺し
不正と賄賂が横行し、訴えは門前払いされ、真実が葬られる。そして、ローマの
支配に隷従しない者は容赦なく弾圧される。そうした暗黒の中に共同体(教会)の
メンバーたちは生きていました。だからイエスの譬は現実的でした。」
ただ何度でも訴える、そうすればこの世の不正と不義にまみれた裁判であって
も、風穴を開けられる・・・。ましてや神様が正しい裁きと願いを聞いてくださ
らないことがあろうかというのである。
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